ホームページ

会員向け指導 C  トップページ  新着情報  サイトマップ  会員向けご指導B


下記の佐藤先生のご指導を福岡さんに伝える電話をしました。
【第25回 優秀賞 「弁当」 全文はこちら】 →

福岡 「佐藤先生からじきじきにご指導いただいて、本当に恐縮です。ありがとうございます。ところでこの作品には “まだ手を入れるべきところがいくつもある” ということでしたが、具体的には何かおっしゃっておられましたでしょうか」

池田 「ほめておられましたよ。感心しておられました。でもあえて言えばということで、たとえばこの部分をご指摘なさいました」

 としぼうの弁当箱にはまんじゅうがぎっしり詰まっていたのである。
「こんなの、見たことないよ。うわあ」
「すごいなあ。うまそうだなあ」
「だれがこんなものを持たせてくれたんだ」
「としぼう、これはどうしたことだ」
 みんなは驚きの声をあげた。

池田 「ここはかっこで括られた会話文が多すぎるとのご指摘です。まるでテレビドラマのシナリオを見るようで、会話が多すぎて作りものになるとおっしゃっていました。その前後のスピード感がここで、モターッとしてしまうのが良くないそうです」

福岡 「ここはですね。としぼうの仲良しが4人おりましたんです、という気持ちで一人一人にセリフを言わせたんです」

池田 「それは作為ですよね。4人いたというのは、この前後の短い部分で5回も具体的な数字で出てきます。読者にはとうに伝わっていますので、1人ずつセリフを言わせる必要はないわけです。としぼうを含めた5人は本当に仲が良かったのでしょう。だから台風でとしぼうが死んでしまったとき、あとの4人がどれほど悲しんだか……」

池田 「だから福岡さんの記憶の中では、その仲良し5人組で運動会の弁当を食べたときのことが、鮮明に残っているのでしょうけれども、読者にとっては、ここは3人組だろうと7人組だろうと、数は関係ないんです」

福岡 「はい……」

池田 「ここでは “としぼうの弁当箱にまんじゅうがぎっしり詰まっていた” のを見た子供のようすを描写すべきだとのご指導でした。先生は、“私なら、おおっという歓声を一行だけかっこに入れて、そのあとはまんじゅうに目をくぎ付けして、まじまじと見つめるようすを書く” とおっしゃいました」

池田 「良く書けた作品でも、見直すといくらでも手を入れるべきところがあるというのが、佐藤先生のお言葉です」

福岡 「よくわかりました。ご指導、ありがとうございました」




2020年3月の佐藤先生のご指導から。

【ご指導の背景】 2月に福岡さんからお手紙をいただきました。第25回優秀賞受賞作品「弁当」について、第53号への掲載時に登場人物の出身地や家族構成などをぼやかし、じもとの人が読んでもわからなくしたいとのことでした。


しかし事実をあいまいにすることで随筆と小説の境界線を超えてしまうようにも思えて、どのようなことを注意すれば良いのかとの質問もありました。さっそく池田は佐藤愛子先生のご指導を仰ぎました。


先生 「エッセイは事実をもとに書かなければなりません。従って他人に知れたら都合が悪いということも書かなければならない場合もあります。その点、私などは若いころから “他人にどう思われようと、作品のためには書くべきことは書く” という姿勢を貫いてきましたから、周りからも “あの人は変人だから” と、あきらめられるようになりました」


先生 「福岡さんの場合は素人なのだし、じもとに知り合いも多いでしょうから、わざとあいまいにしておきたい部分はあるでしょう。それは理解できます」


先生 「エッセイはノンフィクションとは違います。ノンフィクションのように徹底して事実にこだわる必要はありません。登場人物の出身地や家族構成などをぼやかす程度の変更は、エッセイでは許される範囲です。そのほか読者によって多少イメージが違って受け止める、という程度の変更であれば創作も大丈夫、私は気になりません」


先生 「そもそも事実というのは厳密には作者がそう捉えているものであって、本当に真実なのかどうかはわからないわけでしょう。 これこれこうだ、といってもそれは作者の立場でみればそうであっても、別の視点からみれば違う事実が見えるかもしれない」


先生 「たとえて言えば人間観察などがそうですよね。相手がこういう行動をしたと、観察した事実をありのままに書いたとしても、それがどういう意図でそうしたのかは本人に聞かなければわからないし、周りにいるほかの人には、同じ行動をみても違う解釈が生じるかもしれない。 事実には幅があるんです」


先生 「エッセイは文学なのだから人間がよく描けていればよく、読者が胸打たれることが描けていればいいんです。同じ文学を片やエッセイと呼び、片や小説と読んでいますが、その境目にはそんなにこだわらなくて構いません」


池田 「ありがとうございます。では福岡さんのリクエスト、登場人物の出身地や家族構成などをぼやかし、じもとの人が読んでもわからなくしたいというのは認められるということですね」


先生 「その通りです。でもね池田さん、伊勢湾台風が出てくるんだから、ずいぶん昔のことよねえ」


池田 「はい、作品の舞台は60年くらい前のことだと思います」


先生 「そんならもう何を書いても時効なんじゃないかしらねえ。 もしも忖度が過ぎるようだったら、福岡さんの今後がむしろ心配だわね。まわりを気にしすぎて鋭いことが描けないんじゃないかという意味でね。そういう意味では書くっていうのは孤独な闘いなんです」


先生 「この作品はね、主人公の男の子とその父親の気の毒な境遇が、弁当を通した絆で泣き笑いに変わって、それがまた伊勢湾台風でみんな死んじゃうことによって悲劇的に締めくくられるという、人間の宿業がよく描けているから優秀賞に選んだんであって、どこの誰の話かなんていうのは関係ないんです」


先生 「だから作者が出身地や家族構成などをぼやかして、わからなくしたいなんていうのは、どっちでもいいような細かいことを気にするなと言いたい。それよりもね、この作品の中には、まだ手を入れたほうが良いところがいくつもあるんです」


先生 「それからこの題材は、とても味があるから小説にもなるわね。 私ならば失踪した母親を主人公にした小説を書くわ。 そういうのはこの家族にとって外聞が悪いからとか、村の名誉のためには黙っていたほうがいい、なんて言っていたら文学にならないんですよ」


先生 「事実をねつ造して書いたというならば問題だけれど、本当に見聞きしたことを書いて何がいけないんですか。相手を傷つけるといっても、もうとっくに亡くなっているわけですし」


先生 「人間というのは綺麗ごとではない、綺麗ごとを要求しても仕方がないんです。文章修行というものは、とことんまで人間の本質を見抜き、それを文章化する筆力を身につけなければならないんです。福岡さんを含めて、随筆春秋の皆さんにはそうであって欲しいんです」


  




池田 「人間の本質を描いた群像劇といえば、私は佐藤紅緑先生の “あゝ玉杯に花うけて” が一番好きです」 


先生 「あれは少年文学ですけどね。子供向けに単純化したものとしてはあれでいいんです。大人の読者を対象としたものではありません。 人間の本質を単純化して、善玉悪玉に分けたようなものを大人向けの作品として書いたものは、大衆小説、悪く言うと通俗小説ということになります」


先生 「人間というのは複雑でとらえどころがなく、通りいっぺんの観察ではわからず、掘って掘って掘り下げて、この人はどういう人なんだという発見をしなければなりません」


先生 「たとえば私の“血脈”という小説の中に、兄のサトウハチローが出てくるわけですけれども、どうしょうもない不良少年だけれども、他人には言えない孤独な一面を持っていて、そこから彼の詩人の魂があふれて出てくるわけです」


先生 「この彼の心の内に秘めた孤独というものを読者にいかに伝えるか、ということに私は力を注ぎました。 父である紅緑から母や弟ごと捨てられて、救いのない悲哀と孤独のなかで、乱暴者として周囲をおびやかすわけだけれど、本質的にサトウハチローはセンチメンタリストで優しい心の持ち主だったわけです。でも極端なエゴイズムも同居している」


先生 「その相克が強大なエネルギーになって、彼は詩人の才能をもっていたから、それがどっとあふれ出てくる。 “おかあさん”の詩集が売れたけれども、あの中にはウソも作り話もたくさんある、けれども中にはすごい!と感嘆するような作品もあるわけ」


先生 「詩人として成功をおさめたあとも、冷血な側面、吝嗇な側面、肉欲に溺れるでたらめな生活を送る面があったり、一筋縄ではいかないんです。人間はみんなそうなんです。“血脈”の読者にはそれを見抜いて欲しかったですね」


先生 「プロの作家はみんなこうして人間というものをわかってもらおうと、必死で描くわけですよ。そこは命がけです。だからある意味、読者の側も“読み取る力”が試されているわけ。 私の小説を読んだと言っても池田さん、私が伝えたかったことを読み取れましたか? ということを常に問われているんです」








2020年1月の佐藤先生のご指導から。

【ご指導の背景】 昨年来、一般社団法人随筆春秋の新体制で改革が進んでいますが、先生方には適宜に報告してご指導いただいています。佐藤先生にも報告事項が多数あり、書面の往復もひんぱんです。以前であればお伺いして直接申し上げていたことも、新型肺炎のことで世間が騒がしく、思うようにいきません。そこでこの機会にと思い、いろいろ随筆の指導もしていただきました。

【先生への手紙】 私は随筆を書く上での敬語の使い方について、佐藤先生から教えを受けました。

先生は私が第51号に「布勢博一先生を悼む」という作品を掲載したところ、お読み下さって、
「随筆作品においては、布勢さんのことは布勢博一と呼び捨てでよく、布勢博一先生と敬称をつけるべきではない。池田さんは『布勢先生はそうおっしゃって……』、などと敬語で書いているが、文学としてはおかしい。これではこの作品は追悼文学というよりも、葬式で読む弔事のようになっている」
とご指導くださいました。

そこで私は第52号の「変人会議」を書いたとき、佐藤愛子は云々、と佐藤先生のことに敬称をつけずに書きました。そうしますと佐藤先生は、「これで良いのです。文学とはそういうものです」 と認めて下さいました。

第53号で私は 「心の電話」という題で、先日急逝した上木啓二さんのことを書きました。そうしますと、これを読んだ近藤健さんから、呼び捨てや敬語抜きは失礼だと、ずいぶん多くの訂正を促されたのです。

しかも近藤さんは、「佐藤愛子先生の著作、『九十歳何がめでたい』の、『お地蔵さんの申子』の中で、『アベさん』『中村さん』『奥さん』とちゃんとさん付けになっている。佐藤先生のご指導で、人は呼び捨てで書けと教わったというのは、たぶん池田さんの誤解だろう」 というのです。

私はどうもわからなくなりました。そこで池田が書いたものと、近藤さんが直したものとを同封させていただきますので、ぜひ先生に再度のご指導をいただきたくお願いする次第です。


荒川十太というのは池田元のペンネームです











【佐藤先生から電話で】
先生 「池田さんの質問の仕方はね。敬語を付けるべきか付けないべきか、随筆の規則は白黒どっちだ、という聞き方で、そもそも、そういう考え方が間違っているんですよ」

先生 「佐藤愛子の全作品を読んでごらんなさい。敬語を使っている作品もあれば、敬語じゃない作品もある。どこが違うかといえば、それは私が読者に どう伝えれば効果的か、敬語にすべきか、そうでないかを考えて決めたんです」

先生 「近藤さんが“お地蔵さん”では敬語が使われているじゃないかと言ってますけれどね。私の目的がですね、読者にアベさんやナカムラさんと私の “親しみある距離感” をわからせたくて、そう書いたということなんですよ。彼らとは 40年以上の付き合いなわけ。それを“アベが”とか“ナカムラが”と書くと固すぎるわけ……。身近な愛情を持ってることが、文体でわかるでしょ?」

先生 「それとバランスの問題なんですよ。上木さんと池田さんのと人間関係の距離感は、アベさんやナカムラさんと私のそれとは違うわけ。そこまで親しいわけじゃないわけですよ。だから上木さんとか上木ちゃんという書き方はダメで、上木氏くらいがちょうどいい距離感だというのが 近藤さんの判断だろうと思うのよ」

先生 「だからまず作品の文章の質というのが先に来るんですよ。ちょうど、そのなんていうかユーモラスで柔らかいエッセイを書きたいというときは、人物に“さん”とか“ちゃん”がつくわけですよ。でも、たとえば佐藤愛子論を書くときに感情を込めた文章にはならないでしょう? そのときは敬語抜きでいいわけですよ」




先生 「で、これは作品に取り組もうとするときの“作者の自然の心の動き”がそれを選ばせるのであって、ルールで決めるものじゃないんですよ。あなたは本当に真っ正直な人だからね。なんていうか額面通りに言葉を受け取り、額面通りに行動し、その通りに周りもさせようとする。文学はそうじゃないんですよ」

先生 「私の言葉にもプラスアルファというものが入っているの。だからあなたと話しているときには、ケースバイケースのことを、一つひとつ説明して、この場合は敬語使うのよ、この場合は敬語じゃないのよといちいち説明しなきゃならないことがわかったわ(笑)」

先生 「ときと場合によっては敬語を付けるべきであり、付けないべきであり、文体を熟読して読者としては判断すべきだし、作者としては全体の雰囲気がよく伝わるような文体を構成すべきなのよ。これは感性の問題で、作家としての資質があるかないかなの」

池田 「そういたしますと先生、今回の作品は近藤さんのほうが正しいでしょうか?」

先生 「いや、だから正しいとか、正しくないじゃなくて、近藤さんの文体のほうが “普通” ですよ。だけど近藤さんは、どういう場合が敬語で、どういう場合は敬語じゃないというのは考えないで、ほとんど作家としての感性だけで、池田さんの作品に“良い”とか“違和感がある”とか、言っているはずよ」

先生 「そういう感性が必要なわけですよ。今回池田さんのは、上木さんとの距離感を適切に表しているという点で、近藤さんの直したやつの方が良いですね。それとあなたは、杓子定規に考える癖を直さないといけないわね」



先生 「たとえば近藤さんと池田さんの違いというのはね。そうねぇ、もう春になるわけだけれども、」


春霞が山のすそ野をたなびいている。

「あぁ、きれいだなあ・・・・・・」

(このあとわざと余白をおく)


先生 「こう書くのが近藤さん。あなたは 『おやおや、これではいけない。描写に具体性がないじゃないか』 と考えて、書き込み過ぎてしまうのが池田さん」


春霞が山のすそ野をたなびいている。染井吉野に大山桜、濃いピンクは寒緋桜であろうか。

「あぁ、きれいだなあ・・・・・・」

と私は思った。


先生 「どう? 読者が情景をまぶたに思い浮かべることができるのは、どちらですか」


先生 「近藤さんの書き方でじゅうぶんに伝わっているわけですよ。だからどう書けば読者に伝わるか、語句の選び方を間違えていないか、余分な言葉はないか、それを瞬間的に判断するのが作家の感性なんですよ。そしてこの感性は、もともと身についているもので、教えてもわからないんですよ」


先生 「いまの池田さんは杓子定規で、作家としての感性はないわね。でも見込みがないなら私もこんなには言わないわよ。まぁ、あなたは叱りやすいというか、なんと言うか・・・・・・感性がなくても、いつも読者を想定して、気をつけて書くことはできるのよ」




トップページ   新着情報  実物見本  会員向けご指導B