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2020年1月の佐藤先生のご指導から。

【ご指導の背景】 昨年来、一般社団法人随筆春秋の新体制で改革が進んでいますが、先生方には適宜に報告してご指導いただいています。佐藤先生にも報告事項が多数あり、書面の往復もひんぱんです。以前であればお伺いして直接申し上げていたことも、新型肺炎のことで世間が騒がしく、思うようにいきません。そこでこの機会にと思い、いろいろ随筆の指導もしていただきました。

【先生への手紙】 私は随筆を書く上での敬語の使い方について、佐藤先生から教えを受けました。

先生は私が第51号に「布勢博一先生を悼む」という作品を掲載したところ、お読み下さって、
「随筆作品においては、布勢さんのことは布勢博一と呼び捨てでよく、布勢博一先生と敬称をつけるべきではない。池田さんは『布勢先生はそうおっしゃって……』、などと敬語で書いているが、文学としてはおかしい。これではこの作品は追悼文学というよりも、葬式で読む弔事のようになっている」
とご指導くださいました。

そこで私は第52号の「変人会議」を書いたとき、佐藤愛子は云々、と佐藤先生のことに敬称をつけずに書きました。そうしますと佐藤先生は、「これで良いのです。文学とはそういうものです」 と認めて下さいました。

第53号で私は 「心の電話」という題で、先日急逝した上木啓二さんのことを書きました。そうしますと、これを読んだ近藤健さんから、呼び捨てや敬語抜きは失礼だと、ずいぶん多くの訂正を促されたのです。

しかも近藤さんは、「佐藤愛子先生の著作、『九十歳何がめでたい』の、『お地蔵さんの申子』の中で、『アベさん』『中村さん』『奥さん』とちゃんとさん付けになっている。佐藤先生のご指導で、人は呼び捨てで書けと教わったというのは、たぶん池田さんの誤解だろう」 というのです。

私はどうもわからなくなりました。そこで池田が書いたものと、近藤さんが直したものとを同封させていただきますので、ぜひ先生に再度のご指導をいただきたくお願いする次第です。


荒川十太というのは池田元のペンネームです









【佐藤先生から電話で】
先生 「池田さんの質問の仕方はね。敬語を付けるべきか付けないべきか、随筆の規則は白黒どっちだ、という聞き方で、そもそも、そういう考え方が間違っているんですよ」

先生 「佐藤愛子の全作品を読んでごらんなさい。敬語を使っている作品もあれば、敬語じゃない作品もある。どこが違うかといえば、それは私が読者に どう伝えれば効果的か、敬語にすべきか、そうでないかを考えて決めたんです」

先生 「近藤さんが“お地蔵さん”では敬語が使われているじゃないかと言ってますけれどね。私の目的がですね、読者にアベさんやナカムラさんと私の “親しみある距離感” をわからせたくて、そう書いたということなんですよ。彼らとは 40年以上の付き合いなわけ。それを“アベが”とか“ナカムラが”と書くと固すぎるわけ……。身近な愛情を持ってることが、文体でわかるでしょ?」

先生 「それとバランスの問題なんですよ。上木さんと池田さんのと人間関係の距離感は、アベさんやナカムラさんと私のそれとは違うわけ。そこまで親しいわけじゃないわけですよ。だから上木さんとか上木ちゃんという書き方はダメで、上木氏くらいがちょうどいい距離感だというのが 近藤さんの判断だろうと思うのよ」

先生 「だからまず作品の文章の質というのが先に来るんですよ。ちょうど、そのなんていうかユーモラスで柔らかいエッセイを書きたいというときは、人物に“さん”とか“ちゃん”がつくわけですよ。でも、たとえば佐藤愛子論を書くときに感情を込めた文章にはならないでしょう? そのときは敬語抜きでいいわけですよ」




先生 「で、これは作品に取り組もうとするときの“作者の自然の心の動き”がそれを選ばせるのであって、ルールで決めるものじゃないんですよ。あなたは本当に真っ正直な人だからね。なんていうか額面通りに言葉を受け取り、額面通りに行動し、その通りに周りもさせようとする。文学はそうじゃないんですよ」

先生 「私の言葉にもプラスアルファというものが入っているの。だからあなたと話しているときには、ケースバイケースのことを、一つひとつ説明して、この場合は敬語使うのよ、この場合は敬語じゃないのよといちいち説明しなきゃならないことがわかったわ(笑)」

先生 「ときと場合によっては敬語を付けるべきであり、付けないべきであり、文体を熟読して読者としては判断すべきだし、作者としては全体の雰囲気がよく伝わるような文体を構成すべきなのよ。これは感性の問題で、作家としての資質があるかないかなの」

池田 「そういたしますと先生、今回の作品は近藤さんのほうが正しいでしょうか?」

先生 「いや、だから正しいとか、正しくないじゃなくて、近藤さんの文体のほうが “普通” ですよ。だけど近藤さんは、どういう場合が敬語で、どういう場合は敬語じゃないというのは考えないで、ほとんど作家としての感性だけで、池田さんの作品に“良い”とか“違和感がある”とか、言っているはずよ」

先生 「そういう感性が必要なわけですよ。今回池田さんのは、上木さんとの距離感を適切に表しているという点で、近藤さんの直したやつの方が良いですね。それとあなたは、杓子定規に考える癖を直さないといけないわね」



先生 「たとえば近藤さんと池田さんの違いというのはね。そうねぇ、もう春になるわけだけれども、」


春霞が山のすそ野をたなびいている。

「あぁ、きれいだなあ・・・・・・」

(このあとわざと余白をおく)


先生 「こう書くのが近藤さん。あなたは 『おやおや、これではいけない。描写に具体性がないじゃないか』 と考えて、書き込み過ぎてしまうのが池田さん」


春霞が山のすそ野をたなびいている。染井吉野に大山桜、濃いピンクは寒緋桜であろうか。

「あぁ、きれいだなあ・・・・・・」

と私は思った。


先生 「どう? 読者が情景をまぶたに思い浮かべることができるのは、どちらですか」


先生 「近藤さんの書き方でじゅうぶんに伝わっているわけですよ。だからどう書けば読者に伝わるか、語句の選び方を間違えていないか、余分な言葉はないか、それを瞬間的に判断するのが作家の感性なんですよ。そしてこの感性は、もともと身についているもので、教えてもわからないんですよ」


先生 「いまの池田さんは杓子定規で、作家としての感性はないわね。でも見込みがないなら私もこんなには言わないわよ。まぁ、あなたは叱りやすいというか、なんと言うか・・・・・・感性がなくても、いつも読者を想定して、気をつけて書くことはできるのよ」



2020年2月の佐藤先生のご指導から。












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